批評家・評論家と呼ばれる者は、本来なら、複雑なものを単純なものに噛み砕き説明することがその役割であるはずだろう。しかし実際はどうだろうか。彼らの多くが勤しんでいるのはその逆であるように思える。例えば、自分が名付けた概念で社会現象に説明を与えようとする者がいる。概念を練り上げ、社会現象に統一的な説明を与えることができれば、その試みは当然複雑なものを単純なものにするものであるといえる。しかし実際はどうか。言い換えて終わりだ。概念を定める実益はまったく説明されない。それどころか、議論を閉じたものにし、第三者からすれば、言い換えた分だけ無為に複雑化されたものを提示されることになる。酷い場合には、自分が予め用意した枠で把握することに拘るあまり、他人の意見を適切に把握できない者までいる。
また、彼らが好んで使う「考えねばならない時代に来ている」といった言い回しは非常にミスリーディングであろう。「ねばならない」は一体どこから調達したのだろうか。多くの場合それは説明されない。真に受けた大学生たちが、読みにくい、内容のない文章を読み、何か社会の役に立つための態度を示した気にさせられる。最近では会員制のカフェもあるとか。
さらに、「存在しない極端なバカを叩く」という手法も見られる。一体なんの意味があるのだろうか。
例えば、「違法ダウンロードに刑罰をつければCDの売り上げが上がると思っている音楽業界」というのは一時期よく見られた仮想敵だ。さすがに刑罰化したことが売上アップに繋がるなどと考えているわけではないだろう。売上を高める努力をする前提として、違法ダウンロードに歯止めをかけておく、ということは十分に理解できる方針であろう。合理的に判断された選択だと考えれば、目的をこのように捉えるのが自然だろう。そして、この目的は合理的なものだといえよう。人間のモチベーションは有限なのだ。違法にダウンロードされない環境の方が努力できる、これは我々の経験則に照らして容易に想像できる。
また、反原発に関しても同様である。「原発のデメリットを知らずに原発を維持しようとしているバカ」という存在しない相手が叩かれているのをよく目にする。これは本当に意味のある行為なのだろうか。あらゆる決定はメリットとデメリットを比較してなされる。本当に反対したいのであれば、架空のバカを叩くのではなく、メリットを認めた上で、それでもデメリットが上回る、というように議論を進めるべきであろう。また、以前も述べた通り、事実評価に先だって事実認定自体も問題となるが、これについても、陰謀論的な決め付けではなく、データ(これには電力需要に対応できるかということや事故リスクといったものだけでなく、「なんとなく嫌だ」という主観も含めていいかもしれない)から丁寧に議論すべきであろう。さらには、自分が正義の側にあるという確信もまた、危険であろう(これについては別の機会に述べたい)。
さらに、何かのプロが、多くの人の直感と反するような行動をとった場合に、事実評価の拙さが責められることがある。しかしそれは多くの場合適切ではないのかもしれない。プロとして熟議しているはずだということを前提とすれば、事実認定のレベルに相違がある、すなわち何か秘匿された情報があると考える方が良いだろう。例えば外交問題はその最たるものだろう。国民の直感に反する行為がとられた場合には、何か事実認定レベルで前提が異なると考えるほかない。「(情報が不足しており)何も言えることはない」と認めることも、時には重要なのではないだろうか。
本稿こそが、「存在しないバカ」叩きなのではないかという疑問が沸くかもしれない。しかし、いわゆる批評家・評論家の著作を読めば、あるいはTwitterを少しでも覗けばすぐに実感できるであろう。
★★★
確かに、善悪とは別の話として、事実として、意見の価値は「誰が言ったか」と「何を言ったか」の掛け算だ(このことは、大学時代の恩師もよく言っておられた。また、林修先生の著書にも「権威トレンド」と表現され言及されている。個人としても、例えばかわいい女の子の言葉とそれ以外の言葉、親しい友人の言葉とそれ以外の言葉もつ影響力の違いは、広く共有できる感覚であろう。)。これは、日常のレベルでも、社会全体においても、動かない事実だと思われる。そうである以上、「誰が言ったか」という部分を高めるため、手柄をあげ、商業的に成功することも必要である。ここは否定できない。しかし、「誰が言ったか」のみに頼っているような状況は、大いに違和感を感じざるをえないところだ。
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確かに、善悪とは別の話として、事実として、意見の価値は「誰が言ったか」と「何を言ったか」の掛け算だ(このことは、大学時代の恩師もよく言っておられた。また、林修先生の著書にも「権威トレンド」と表現され言及されている。個人としても、例えばかわいい女の子の言葉とそれ以外の言葉、親しい友人の言葉とそれ以外の言葉もつ影響力の違いは、広く共有できる感覚であろう。)。これは、日常のレベルでも、社会全体においても、動かない事実だと思われる。そうである以上、「誰が言ったか」という部分を高めるため、手柄をあげ、商業的に成功することも必要である。ここは否定できない。しかし、「誰が言ったか」のみに頼っているような状況は、大いに違和感を感じざるをえないところだ。
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