都内某大手新聞の政治部所属で記者の職に就いている友人が、こんなことを言っていた。ネット選挙解禁によって明確に変わったことの一つは記者の仕事であり、twitterやニコ生をもらさず把握する必要が生まれ、仕事量が膨大に増えた、と。そう彼は嘆いてみせた。
長年、彼と話をしていると、記者の行動原理のまず第一は、スクープをとるといったことではなく、「他社が拾った事実をもらさないこと」にあることが見えてくる。冷静に想像すれば当然のことだが、意外と瞬間のイメージとはズレているかもしれない。
また、これも一般的なイメージとはズレそうだが、取材対象者と記者との関係は、新聞社の構成員と政治家といった形式的なものではなく、もっと人と人との普通の人間関係と同様であるということも分かってくる。したがって、例えば民主党政権時に国会担当となった記者は、民主党が野党に下っても担当は民主党のままである。これはアメリカにおいても同様であろう。例えば前回の大統領選で、オバマの再選が危ういというニュースの方が日本でもよく聞こえてきた。これは、実は報じられる情報の量について若干偏ったものであったようだ。このような報道が多くなされていた理由は、日本に情報を伝える位置にいる記者は、01-09の共和党政権時に与党つきであった者が多いことによると推測される(結果としては、周知の通りオバマは危うげなく再選した)。
このように、シンプルに人間的に信頼関係を築き、情報を得る、という活動が記者の活動であるようだ。他方で、選挙特番等で政治家にぐいぐい質問する池上彰さんなんかは、政治部ではなく社会部の出自を思い起こさせる手法に見えるそうだ。
なんにせよネット選挙解禁は、政党や政治家を評価する前提となる事実の量を増やすことに貢献するだろう(事実評価とそれに先立つ事実認定の話は以前も述べた)。そして、評価の前提となる事実を増やしていく役割を果たす「記者」の一人も、同様のことを実感しているようだ。選挙権者がソース付きですぐに取得できる情報が今回の選挙では格段に増えている、と述べていた。
投票率のこと。
他方で、私と彼との間で見解が分かれた点がある。それは、「投票率が高いことは善きことだ」、という点である。私はこれは限定なくしては同意できない。十分な情報を得たのち、熟議し、その上で投票する人の数が増えることは、間違いなく善きことであろう。しかし、この「事実認定」「事実評価」という各過程の成熟度を問わないまま、投票率が高いことを望むのは、はたしてどうなのだろうか。これは議論が分かれるところであろう。以前も述べた通り、手段は目的との関係で評価されるべきであるところ、投票という手段を評価するにあたっては民主主義をどう見るか、国民一般をどう見るか、といった国家観に深く関わる問題であろう。そしてこれもまた当然、とりとめなし、結論なし、である。論理の領域に属する問題ではなく、価値観の領域に属する話であるからだ。とはいえ個人が、微力ではありつつも真摯に思考を働かせることは、きっと悪いことではないだろう。
武井壮さんが似た趣旨のことをおっしゃっていたので引用する。彼は瞬間のイメージとは裏腹に非常に知的な人物である。彼が月曜にコーナーを持つたまむすびというラジオをPodcastでよく聴いている。意図をもってあらゆる行為に及んでいるのがよく分かる。また、高級車や高級マンションを有していることが騒がれていたが、彼は家をもたないキャラであっただけであり、貧乏キャラであったわけではない。優れた身体能力と知性、そして貪欲さを持っており、相応の資産を築いてきたのは当然であろう。
だからよ、選挙は行った方がいいに決まってんだろ。。投票率100パー目指してよ。。でも知らずに投票するより良く知って投票した方がいいだろ。。選挙までひたすら時間あったんだからよ。。次までに色々考えようって話だわ。。まずは行く事!じゃねえよ。。知って行こうぜ。。
— 武井壮 (@sosotakei) July 21, 2013
他方でまた、「××党が勝てないのは投票率が低いせいだ」「原発反対派が支持を得られていないように見えるのは投票率が低いせいだ」といった非論理の拠り所に投票率が用いられるのも事実である。民主主義には、民意の調達手段としての側面の他に、国民による立法府への正当化の側面もある。例えば国民主権についての憲法学者による把握として、国民主権には権力性と正当性の両側面があるとされている。権力性とは、国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が有するという意味であり、正当性とは、国家の権力行使を究極的に正当化する権威が国民にあるという意味であるとされる。後者の「正当性」という点を軽視してはならない、という意見も重要なものであろう。実質は置くとしても、形式として、選挙にこのような正当性の表出としての意味を持たせるには、現在の投票率では足りないのではないか、という意見もまた、理解できるところだ。