2013年6月14日金曜日

善意と善行のこと

「何をすれば相手が喜ぶか分からないときには、(1)自分がされたくないことはせず、(2)自分がされて嬉しいと思うことをすればいい。わからないからって何もせず委縮すると善行はなされない」という趣旨の主張を見かけた。

これは実は怖い世界観なのではないだろうか。

例えば医療の分野では、行為規範として医療四原則というものがある。それは「無危害」「善行」「配分的正義」「自律尊重」の四つだ。これは様々な分野で成立する素敵な行為規範だと思われる。本稿では、「善行」に優先される「無危害」という重大な原則がある、また、「善意」による行為=「善行」ではない、ということを喚起する話ができればと思う。

★★★

まず、「行為者の意図は多くの場合重要ではない」ということを思い出すべきだ(「多くの場合」と留保をつけたのは、親密な間柄では例外的に意図そのものが意味を持ちうるからだ)これを否定すると「善意」=「善行」と考えることにつながってしまう。しかし、行為の目的が相手を喜ばせることにあるのであれば、重要なのは相手方の主観だろう。

「そんなつもりじゃなかった」「あなたのためを思ってやったことだから」といったような、行為者が自らの意図を語る姿を見たことは、誰にでもあるだろう。これらの言い回しのように、行為者の意図はそもそも基本的には言い訳として外部に出される。しかし、行為を行うに際して重要なのは、「行為者の主観」ではなく、「被行為者の主観」や「行為によって生じる結果」の方だろう。行為者の主観の解説は、「この行為は善意によるものなので善行として受け取ってください」という、善意で行為を正当化しようとする意味しかもたない。

「善意」から行われる行為を「善行」だと確信して他者に何かを働きかける行動すること、事後的にそれを解説すること、これらはあまり褒められたものではないだろう。

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(1)「自分がされたくないことはしない」というのは素晴らしい行為規範だろう。他方で、(2)「相手が何をしてほしいか分からないときは自分がされて嬉しいことをする」というそれは、結構怖い。

確かに、親密な間柄であればこの(2)の行為規範を適用することは自然なことかもしれない。親密とはそもそもそういうことだろう。善意(意図)自体が嬉しいからである。

しかしながら、親密な間柄というものは当然、かなり例外的な状況だ。社会で生活するほぼすべての人は、親密ではない。広く知らない相手に対しても当該行為規範を適用しようとするならば、この行為規範は恐ろしいものであるといえ、その前提としている世界観は恐ろしいものである。

後者の行為規範を信じている人物は、(A)「価値観はびっくりするほど多様である」という事実を否定した(あるいは知らない)世界観の持ち主か、(B)(価値観は多様であり自己の主観から他者の受け取り方を類推することはできないことを認識しつつも)行為が生み出す結果や相手の主観は置いて、自己の意図によって行為を正当化しようとしている人物であろう。そして、そのような人物が(2)の行為規範を適用し身勝手に行動することにより、被行為者はただただリスクを負わされるのだ。

「善意による行為」=「善行」ではないことを認識すべきだ。また、被行為者が行為者に何かしらの干渉の契機を与えたのではない限り、「善行」(干渉)よりも「無危害」(不干渉)が優先されるべきだ(なぜなら被行為者が一方的にいリスクを負わされるからだ)。仮に「善行」が「無危害」に優先される理由はないと考えても、「善行」であるか否かが事前には不確かな場合には、「無危害」を優先すべきだとはいえるはずだ(なぜなら被行為者が一方的にリスクを負わされるからだ)。事実として価値観は均質ではない。そして、なによりも重要なのは、「私と相手は親密な間柄にある」という誤解をしないことだ(なぜなら被行為者が一方的に…)。職場が同じであったり、クラスが同じであったり、あるいは親子であると、ついつい親密な間柄だと思ってしまいがちだろう。しかしこれらは当事者が選びとった関係ではない。本当に相手と親密な間柄にあるかをもう一度考え直すことは重要であろう。

何か善行を行いたいのであれば、相手の選好を端的に尋ねればよいのだ。それによってリスクの発生は基本的には防止できる。その方が行為者自身にとっても被行為者にとっても幸せなはずだ。喜ばれるサプライズは、親密な間柄においてのみ成立する。

リスクを被るのは相手だ。「何もしない」という選択肢を、忘れるべきではないだろう。

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「親密な」の定義は曖昧だ。かわいい女の子やイケメンだったら、交流がなくてもこの定義に含まれるだろう。意図自体で相手方の嬉しさを発生させるからだ。かわいいは正義とはそのような意味だと解される。

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