2013年6月8日土曜日

ルールのこと

「ルールさえ守ればなにやってもいいと思ってるのか!」という発言に対する違和感。

他者に押し付けていい価値観の束は、ルール・法だけだと考えておくべきではないだろうか。これ以外の価値観は、「個人的な価値観」であり、それを他者に押し付けることができると考えることは危険なのではないだろうか。

 「個人的な価値観の押しつけ」がなされるのが社会の在り方だとすると、委縮効果が発生してしまう。そして、わざわざ立ち入ってきた第三者たちにより、精神的に傷つけられてしまう。

そういった押しつけをしてしまう側は、自己の行為がただの攻撃であることに気がついていない。押し付けることが正義であるという謎の確信を持ってしまい、積極的に押し付けようとすらしてしまう。攻撃ではなく、社会的な利益のための防御だと思っている。または、攻撃だと認識しているとしても、先に攻撃してきたのは相手だ、と考えてしまうのであろう。社会的な秩序が傷つけられたのだから攻撃していいはずだ、と。しかし、ここでいう社会的利益とは何であろうか。また、それを巧妙に定義付けることが可能であるとしても、他者に介入する道具にすぎない「社会的利益」なるものを、具体的な個人の具体的な利益に優先して認めるべきなのだろうか。

伝統や慣習、通念。ルール・法になっていないがなお必要とされるものはたくさんある。しかしながら、これらは自己を律するものであれ、他者を拘束するためのものではないはずだ

 「ルールは破ってないけどダメ、悪だ!」とする価値観はどこから調達したものかといえば、それは当該発言をする人の個人的な価値観以外にありえない。同様の価値観を偶然に有した人がいるとしても、だからといって個人の価値観が、手続きを経て合意を経た他者に強制可能な価値観と同等の価値をもつわけではない。同様の価値観を有した者たちで集まり、互いの個人的な価値観をエンドースし合い、正義はこちらの側にあるという謎の確信を深める。そしてよってたかって糾弾する。それはやはり危険な状態だといえないか。

ルール・法は、民主的に調達した価値観がもとになっている。代表がつくる、合議でつくる、といった性質から個人の価値観とずれる部分も少なくないであろう。しかし、少なくとも納得がある。事前の合意がある。事前の参加がある。これは押しつけても問題ない価値観の束だ。きちんと用意されている。押しつけていい価値観の束は、きちんと社会に用意されているのだ。また、価値観の束が十分に大きければルール化される道も用意されているし、既存のルールを変更する道もある。

ルール・法の他に、他人に押し付けていい価値観を認めるべきなのだろうか。そもそも価値観が多様であることを前提とすれば、決まりごとはなるべく少ない方がよいはずだ。押しつける側は正当な防御だと勝手に考え堂々とあらゆる人に攻撃をしかけている。わざわざ立ち入って攻撃をしかける第三者はやはり危険なのではないか。

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