2013年6月1日土曜日

病気のこと

  「病気」とはなんだろうか。これを定義するのは実は難しい。おそらく「健康」「正常」を定義し、それのとズレを「病気」と名付けるのだろう。この「健康」の設定の仕方によっては、左利きも怠惰さもブサイクも、なにもかもが病気になるだろう。

   「病気」という語がなんらかの意味をもつためには、なんらかの限定が必要なはずだ。
  「健康」とはなんだろうか。
  「生まれながらにもっている性質」だとすると、「生まれながらの病気」の存在を否定することとなってしまう。では、「多くの人が生まれながらにもっている性質」だとどうだろうか。そうすると、どの程度の人が持っている性質が「正常な性質」であり「健康」なのだろうか。割合を基準とした定量的な定義付けは、線引きが難しく、また、少数派を締め出すことになりかねない。少数派に「病気」というレッテル、スティグマを貼り付けることになりうる。やはり適切な定義はできそうにない。

  考え方を変えてみよう。
  「設定した健康に近づける手段が存在するときに、それは病気となる」はどうだろうか。
  まず、設定の主体はどこにあるべきだろうか。
   権威的機関が一括に設定するか、個人の主観に委ねるという方法がありそうだ。前者には危険がある。多数派が少数派に対し、「病気」と名付けることができてしまう。もっとも、一括に設定された権威付られた定義がなければ、医療行為を定義付けることができず、社会は動かない。後者にも問題がある。「私は病気なので。病気のせいで」という言い回しが当然に他者に通用するわけではなくなってしまうからだ。とはいえ、主観的に自己が病気だと考え、また、正常へと近づける手段が存在する場合には、それを「病気」と名付けてしまってよい気がする。
  定義を考えるときは、両方の観点から見る必要がありそうだ。そして、どちらの観点によるかによって、「病気」という語の役割は変わってくるだろう。

  では、「設定した健康に近づける手段が存在する」という客観的定義の部分はどうか。
  これは、薬で物理的化学的に治したり、カウンセリングにより精神的働きかけで治したり、と「病気」のもつイメージに近い。これでは「不治の病」が「病気」の定義から外れてしまうのではないか、ということが少し気になる。とはいえ、この場合は、進行を遅らせる手立てがあれば、なお定義は維持できそうだ。また、全く手立てがないのであれば「病気」と名付ける意義は実は乏しいのかもしれない。

  しかしこの定義の問題は、左利きも低身長も「健康」に近づける手段が存在するということにある。これらは「病気」とするのが適切なのだろうか。利きになるよう治療すれば包丁やドアや改札といった多くの場面で社会生活が楽になる。そして、左手に包帯を巻き数ヶ月過ごす、といった矯正「治療」も可能であろう。主観的に治したいと感じている者に治療を施すことはよいであろう。他方で、権威的機関が一括に設定し、ある種のレッテル、スティグマを貼り付けてしまうのは問題がありそうだ。そうだとすると、医療行為として認定されず、主観的観点による定義は無意味なものに帰する。

  ちなみに筆者は左利きである。(この一文が一定の役割を果たしてしまう点に社会の問題がありそうだが、これはまた別の機会に。)

  「病気」の名付けの基準、歯止めはあるのだろうか。
  歯止めがないとすれば、「これは病気です」「私は病気なのです」という言葉はほとんど情報量を持たないことになってしまう。


  だらだらと述べてきたことの論旨は簡潔なただ一つ。定義付けることは困難だ、ということだ。難しい問題ではあるが、「病気」というものの定義が自明ではないことを意識することは有用であろう。もう少し踏み込むとすれば、「私は病気を抱えているので…」と「病気」を根拠に他者に何かを求める場合には、求める側が、いかなる観点でそれが「病気」であるかを相手に説明する必要があるのではないか、とは言えないだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿