2013年6月26日水曜日

自殺のこと

自ら死を選ぶひとが少ない社会の方がいい(前提1)。おそらく異論のないこの前提から考え始めよう。

死が社会を動かす有用な武器となる社会。これは自ら死を選んでしまうことを助長するだろう。そうだとすると、自ら死を選ぶ人が少ない社会を目指すためには、死に大きな社会的意味を与えてはいけない。WHOの自殺報道ガイドラインにおける「自殺を美化したり、センセーショナルに報じない。」という規定も同様の趣旨であろう。また、あえて付記する必要はないかもしれないが、これは死者を悼む思いとは両立する別の話である。

ネットでのバッシングはどうするべきか。相手の打たれ強さは他人には分からない。そうだとすると、なるべく叩くことを避けるべきだろう。「過度に叩くことを」と言えないのは、相手の打たれ強さが分からないからだ。少なくとも言って後悔することは言わない方がいいだろう。逆に、後悔しないのであれば、仮に相手が死んでしまったからといって意見を変える必要はないだろう。意見を変えてしまうのなら、最初からそのようなことを言うべきではないし、何より死が武器となってしまう。いずれにせよ、第三者が見知らぬ他者に関わる際には、先立って熟慮が必要であろう。

もっとも、公人は、叩く必要が一定程度あり得るだろう(前提2)。ここには異論はないだろう。

しかし前提1をできるだけ害さない必要がある。叩くことはどの程度まで認められるだろうか。

相手の打たれ強さが分からないことから、客観的な程度を定めることができない。前提1を優先的に維持するとすれば、「死を選んでしまう可能性があるからまったく批判はすべきでない」となるだろう。しかしこれは誰も支持しない意見だろう。

むしろ、異論ない考え方は「死を選ばせる可能性はあるが批判はすべきだ」というものだろう。批判は常に死を選ばせてしまう可能性を孕んでいる。これは避けられない。我々の多くが、この「死を選ばせる可能性はあるが批判はすべきだ」という考え方を持っているのだということを、まず強く認識することは重要であろう。

では二つの異論ない前提を両立させることは本当にできないのだろうか。方法があるとすれば、批判される側が打たれ強くあるべきだ、というものしかないだろう。公人にはこのことがより強く求められるだろう。打たれ強くある決意ができないのではあれば、それとセットである公人になるという決意をすべきではないだろう。もっとも、すべての人にとって、批判される側の事情は他人事ではない。以前にも述べたが、単純に、なるべく仲間をつくり、なるべく強く生きなけけらばならないのだろう。

自殺とは、親がいれば、その人の子を殺す行為であり、友人がいれば、その人の友人を殺す行為である。また、まったく関係のない人の気分を害する行為でもある。こういった自殺の性質が武器としての機能を果たすことは、阻止すべきであろう。繰り返しになるが、これは死者を悼む思いとは両立する別の話である。そして、論理必然ではないが、仮に誰かが自殺したとすれば、筆者は死者を悼む思いからこの記事を記すだろう。
(事実は分からない。以前述べた通り、我々は常に「仮にこういう事実があったらこうだよね」という意見しか言い得ない。多くの場合わざわざ付言しないが、意見を言うときは常に「仮にこういう事実があったら」が省略されている。)

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