2013年6月30日日曜日

クラブ経営のこと

スペインリーグ3部にアルバセテというチームがある。アルバセテは、選手の給料の未払金を一定の期限までに支払わなければ降格のペナルティを受ける危機にあった。そこに現れたのは、バルセロナのイニエスタであった。彼は自費でその未払金を支払い、降格を免れさせたそうだ。イニエスタは当該チームの下部組織に所属していた。2011年から主要株主でもあり、株主としての考慮も働いたであろうが、自分を育てたチームを降格から守るするイニエスタはさすがである。

リーガといえば、今年の1月10日に破産手続開始の発表をしたデポルティーボのことが思い起こされる。スペインの不況もあり、レアルとバルサといういわゆる2強チーム以外の集客力は明確に衰えている。そのような状況において、デポルティーボは破産手続を開始するに至った。リーガには破産によるペナルティはなかったようだが、結局作シーズンを19位で終え、デポルティーボは降格するに至った。上記のアルバセテに適用されるレギュレーションとの違いは気になるが把握することができなかった。

これ対し、例えばセリエAでは、フィオレンティーナが破産により強制降格している(この場合もやはり、強制降格がなされる前から、主力選手を放出せざるを得ず、成績は低迷していた)。各リーグにより破産・再生手続開始に伴うレギュレーションは異なる。チームの強さや格といったものは、やはりチームの財政と大きく関連することから、財政についてのレギュレーションのリーグ間比較は興味深い。

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財政についていえば、クラブの収入の内訳も各リーグにより大きく異なる。いずれのリーグにおいても、収入の大きな柱は放映権料、入場料、グッズ販売の3つである。

セリエAでは、テレビの放映権料がその収入の多くを占めている。6割が放映権料であり、観客収入は1割強にとどまる。また、グッズ販売も他リーグより少ない。これに対し、ブンデスは観客数が世界一であり、入場料やグッズ販売による収入が多い。プレミアは、そのいずれものバランスがとれており、世界で最も多く収入を得ているリーグとなっている。

ではリーガはどうであるか。

リーガといえば、放映権問題である。昨夜、アルバセテに関するニュースとともに、スペイン政府のスポーツ上級委員会の会長がリーガの緊縮財政政策を発表したとのニュースも報じられている。そこで同会長は、テレビ放映権に関する介入も強調している。

リーガは現在テレビ放映権につき、他のリーグが行っているような、一括でリーグが放映権料を集め各クラブに再配分するということを行っていない(よって現状では2強チームが放映権料を他のチームに比してかなり多く得ている。10-11シーズンのデータによると、バルセロナが25.3%、レアル・マドリーが24.1%。そしてリーガ3位のバレンシアにはたった6.5%の放映権があてられるのみである)。これについて会長は、14-15シーズンから一括管理を始めるという方針を示したという。

一括管理がもたらすものは、配分の公平性にとどまらず、放映権の売却もより見込めるようになるという効果も含まれる。現状ではそもそもの放映権料の総額はプレミアやセリエよりもかなり低い額となっている。一括管理を行えば、2強チームは減収となるが、リーグ全体にとっては増収となるだろう。

放映権の一括管理への動きを受け、レアルのペレス会長は、いち早く他の収益手段の確保に向け動いていると言われている。それは、ベルナベウを全面改修し、多目的施設として増収を図るという手だと言われている。CLのブンデス所属チーム同士の決勝も象徴的であったが(前年度も準決勝でレアル、バルサともに敗退しているが、1stレグでの4点差、3点差の試合は世界に衝撃を与えた)、財政面からもリーガは分かりやすく正念場を迎えている。

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日本についてみると、例えば野球ではリーグごとに収益構造が大きく異なる。

セ・リーグは、放映権収入が主なものである。他方で、パ・リーグは、スタジアムを管理する権利をチームが有しており、スタジアム収入が多くを占めるという。具体的には、看板広告の収入はスタジアム収入の典型であるが、それに加え、ボールパークと称し遊園地や娯楽施設としての機能をスタジアムに担わせ収益を上げている。これは先のペレス会長の方針を想起させる。放映権収入からスタジアム収入へと経営戦略の重点が移行しようとしているのは、セ・リーグ型からパ・リーグ型への移行と言えるかもしれない。

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また、政府や地方公共団体といった公共部門とスポーツとの関連も興味深い。例えば、日産スタジアムの指定管理者(公の施設の管理の権限が付与され、管理業務のみならず利用許可などの一定の行政処分も行うことができる)である横浜マリノスが抱える困難であるとか、町田ゼルビアに対し今年のはじめになされた住民監査請求(これ自体の妥当性は別として、市がクラブへ関与することから生じてしまう様々な問題の典型であろう)といったものについては、また機会があれば詳述したい。

入場料収入と地方公共団体について、セリエAのユベントスの例を残しておく。

ユヴェントスは、2011年9月にユヴェントス・スタジアムを設立しており、これにより入場料収入を3倍近く伸ばし、一気に欧州のトップ10に入っている。

何故これまで収入を増やせたかといえば、この新スタジアムが、クラブ自身が所有するスタジアムであるからだ。クラブによるスタジアム所有は、セリエで初となる。その他のクラブが使用するスタジアムは、自治体が所有するものであり、サッカー専用スタジアムではなく、陸上のトラックがあり観客席とピッチが遠いスタジアムがほとんどである。そして、入場料収入についても、スタジアムの所有者である地方公共団体に半分も流れていた(逆にいえば、ユヴェントススタジアムの設立により、市の収入が大幅に減っているともいえる。この流れが続けば、イタリアにおいてまた別の問題を残す余地もありそうだ)。

ユヴェントスは、かつてホームスタジアムとしていたデッレ・アルピ(スタジアム周辺土地を含む)を市との長年の協議の末、市から買い取ることに成功した。これにより、自前のサッカー専用スタジアムとして新スタジアムを設立し、入場料収入を増やすとともに、これまであった陸上トラックが除去された非常にピッチと観客の近いスタジアムを手に入れることとなった。また、この年に無敗優勝を達成し、試合における成功も、収入の増加に寄与していることも忘れてはならない。財政面、結果面でも劇的な改善をした良い例であろう。




2013年6月26日水曜日

自殺のこと

自ら死を選ぶひとが少ない社会の方がいい(前提1)。おそらく異論のないこの前提から考え始めよう。

死が社会を動かす有用な武器となる社会。これは自ら死を選んでしまうことを助長するだろう。そうだとすると、自ら死を選ぶ人が少ない社会を目指すためには、死に大きな社会的意味を与えてはいけない。WHOの自殺報道ガイドラインにおける「自殺を美化したり、センセーショナルに報じない。」という規定も同様の趣旨であろう。また、あえて付記する必要はないかもしれないが、これは死者を悼む思いとは両立する別の話である。

ネットでのバッシングはどうするべきか。相手の打たれ強さは他人には分からない。そうだとすると、なるべく叩くことを避けるべきだろう。「過度に叩くことを」と言えないのは、相手の打たれ強さが分からないからだ。少なくとも言って後悔することは言わない方がいいだろう。逆に、後悔しないのであれば、仮に相手が死んでしまったからといって意見を変える必要はないだろう。意見を変えてしまうのなら、最初からそのようなことを言うべきではないし、何より死が武器となってしまう。いずれにせよ、第三者が見知らぬ他者に関わる際には、先立って熟慮が必要であろう。

もっとも、公人は、叩く必要が一定程度あり得るだろう(前提2)。ここには異論はないだろう。

しかし前提1をできるだけ害さない必要がある。叩くことはどの程度まで認められるだろうか。

相手の打たれ強さが分からないことから、客観的な程度を定めることができない。前提1を優先的に維持するとすれば、「死を選んでしまう可能性があるからまったく批判はすべきでない」となるだろう。しかしこれは誰も支持しない意見だろう。

むしろ、異論ない考え方は「死を選ばせる可能性はあるが批判はすべきだ」というものだろう。批判は常に死を選ばせてしまう可能性を孕んでいる。これは避けられない。我々の多くが、この「死を選ばせる可能性はあるが批判はすべきだ」という考え方を持っているのだということを、まず強く認識することは重要であろう。

では二つの異論ない前提を両立させることは本当にできないのだろうか。方法があるとすれば、批判される側が打たれ強くあるべきだ、というものしかないだろう。公人にはこのことがより強く求められるだろう。打たれ強くある決意ができないのではあれば、それとセットである公人になるという決意をすべきではないだろう。もっとも、すべての人にとって、批判される側の事情は他人事ではない。以前にも述べたが、単純に、なるべく仲間をつくり、なるべく強く生きなけけらばならないのだろう。

自殺とは、親がいれば、その人の子を殺す行為であり、友人がいれば、その人の友人を殺す行為である。また、まったく関係のない人の気分を害する行為でもある。こういった自殺の性質が武器としての機能を果たすことは、阻止すべきであろう。繰り返しになるが、これは死者を悼む思いとは両立する別の話である。そして、論理必然ではないが、仮に誰かが自殺したとすれば、筆者は死者を悼む思いからこの記事を記すだろう。
(事実は分からない。以前述べた通り、我々は常に「仮にこういう事実があったらこうだよね」という意見しか言い得ない。多くの場合わざわざ付言しないが、意見を言うときは常に「仮にこういう事実があったら」が省略されている。)

2013年6月25日火曜日

Jリーグの集客のこと

国内組はなぜ代表に呼ばれないのか、という問題提起が大きく持ち上がっている。コンフェデ後にまたゼロから代表選手の選考をする、という話がある。そして、間近に迫る東アジア選手権。上記の問題提起が持ち上がるには十分な背景がある。
他方で、サッカーがいかにメンタルのスポーツであるか、ということもコンフェデで改めて浮き彫りになったといえるが、国内組と海外組の形式的な違いは、ここに関連しそうである。代表の主力である本田選手や内田選手は、「勝ち癖」という言葉を以前からよく用いており、今回も敗戦の理由としてこの言葉を提出している。「勝ち癖」というのは、当然、「世界レベルの試合における勝ち癖」を意味するであろう。イタリア戦で前半終了間際、ピルロがCKに急いで日本の準備が整わないうちにリスタートをし、デロッシのゴールが決まったあのシーン。給水をしていた遠藤選手と前田選手が象徴的に画面に映し出されていた。いずれも日本を代表する高い能力を持った二人だ。

Jリーグのレベルはどのようにしたら上がるのだろうか。素朴に考えてみようと思う。

まず、能力が高い選手を連れてきたり雇ったりするためには、お金が必要だ。Jリーグのチームの主な収入源は、スポンサー収入(広告料など)とサポーター収入(入場料、グッズ販売による収益など)だ。集客力を高めることが決定的に重要だということは感覚的に分かる。もしかしたら、身体能力の高い子どもが、他のスポーツではなくサッカーで一流になることを目指すようになる、ということも必要かもしれない。いずれにせよ、Jリーグへの関心、サッカーへの関心を高めることが必要そうだ。

ここで、「人々の価値観を変えよう」というアプローチがあり得るが、個人的には賛成できない。都民の多くが望んでいないことがデータとして明白に表れていたのに、「東京でオリンピックを開催することは善きことだ」という個人的な信念の下で、他人の価値観を変更しようとするのは、あまり褒められたことに見えなかったからだ。また、何事も、北風作戦よりは太陽作戦の方が上手くいくように思える。いずれにせよ、既存の価値観をもったまま、人々がJリーグに関心を持つようになる方法がないのかを考えていきたい。

スポーツの楽しみ方は、大きく分けて二つある。

まず、レベルの高さを楽しむという観点がある。しかし、明白により優れたリーグが海外にある以上、この観点からはJリーグへの関心がそれほど高まらないであろう。

次に、ストーリーを楽しむ、という観点がある。使えるとすればこの観点だろう。熱心なサッカーファンも、映画のように試合を楽しむことがあるだろう。それは試合の内側においてもそうであるし、背景的なものを含んだ物語である場合もあるだろう。ここ1ヶ月くらいのことで言えば、CLに優勝した後のドイツカップ決勝という現体制最後の試合でマリオゴメスが先発起用されたことや(しかも2点もとった!)、あるいはヴォルフスブルクに移籍したペリシッチがドルトムント相手に活躍した(2点もとった!)ことは、ストーリーとしてもぐっとくるものがあった。
駅伝や高校サッカーが比較的広い層に楽しまれている理由はこの点にあるだろう。レベルの高さという点では他の大会に劣るこれらが、広い層に受け入れられているのは、汗と涙のストーリーがあるからだ。前日から周到に各校の歴史的背景、因縁を伝える番組が組まれ、また、試合後のロッカールームの映像が流される。これらを知るからこそ、ぐっとくる。

Jリーグにおいても、これができないだろうか。

こういった発想は当然に生まれるものであり、例えば実際にいくつかの地方で、地元チームの応援番組が放送されている。しかし、多くの場合これらは深夜帯または早朝(セレッソなど)に放送されるものであり、今年の3月には、「グランパスTVプラス」という19年間続いたグランパスの応援番組が終了したことが話題となったように、こういった番組は熱心なファンをつなぎとめることには役立っても、新規のファンを獲得する役割を担うのは困難だといえそうだ。

では、どのような方法が考えられるか。次の機会に書ければと思う。

2013年6月22日土曜日

岡崎慎司のこと

ッカー少年がそのままの情熱で大人になったと思わせる風貌。小学校の頃、このような風貌の同級生が誰にでもいたはずだ。やはり、このような人物こそ世界で認められて欲しい。そして、ここにコンフェデという素晴らしい舞台がある。これに出られなかったことでほんの少しオシムさんに恨みを思ってしまうほど大事な大会である。

ブラジル戦では、1トップ起用。今年1月のヴォルフスブルク戦において、イビセビッチが出場停止の際、1トップ起用された岡崎はなにもできなかった(試合はジエゴにやられた。ユーべでは輝けず、マガトには外され、ブラジル代表としてはカカがいるため出場できず、という選手。ではあるが、非常に優れた選手だ。ブラジルはすごい)。その試合以来に見る岡崎のワントップ。やはり多くのことはできなかった。ファールをとるべく消極的に倒れこむシーンが多かった。 しかも、そのうちの多くは攻撃の正体がつかめない倒れ方であった。前田が入り右SHに移ってからは、守備面ではマルセロにうまく対応できていたように見えた。とはいえチーム全体のメンタルにおいて、もはやどうにもならなかったようだ。

しかし、イタリア戦。 ザキオカPK奪取。ザキオカターン。ザキオカルーレット。ザキオカピルロからのボール奪取。ザキオカダッシュ。ザキオカヘッド。…といった素晴らしい岡崎選手が見られた。長めのパス以外はほとんど成功していたように思えた。

昨シーズン終盤、シャルケ戦で自陣ゴールに長距離ドリブルをして、アシストを決めた男と、同一人物である。ドイツの方々も非常に驚いたことであろう。スペイン紙では「日本にはオリベルアトム(キャプテン翼)がいた」と評されたとか。彼は間違いなく世界をいくらか驚かせた。本当に嬉しい。今夜のメキシコ戦。非常にわくわくしている。 良い就活になってほしい。

サッカー好きにとって、サッカー選手は憧れの対象そのものである。 もはや代表ではレジェンド級の結果を残している岡崎選手は本当にかっこいい。代表戦のスタジアムで、自分のユニを着ているサポが少ないことを気にする岡崎選手。毛髪の量を気にして長髪にしていたと告白する岡崎選手。サッカー少年がそのままの情熱で大人になったと思わせる岡崎選手。ありのままの岡崎選手でがんばってください。

2013年6月15日土曜日

意見・戦略形成のこと

「過ちては改むるにはばかること勿れ」とは論語にある教えだという。まったく知らなかった。これは林修氏の著書『いつやるか? 今でしょ!』の冒頭に記載された言葉でもある。ある機会で偶々いただいたこの本の前書きに完全に引き込まれた。中高、大学の先輩でもある林修氏。いつかお会いしてみたいものである。

人生において常々、「頭の良い人物」、つまり「物事を上手くやる人物」、より実践的な呼び方をするのであれば「モテる人物」とは、前提となる事実が変化したときにすぐに意見・戦略を変更できる人物だと感じてきた。まさにこの論語にある言葉、林修氏が引いた言葉の通りだ。「大体の人の悩みは昔の人が解決している」という林修氏がテレビで述べていたことが端的に示された形でもある。すべての意見・戦略は、「仮に××という前提があれば、こうだ」というものにすぎない。そして、事実に関する情報は常に十全ではなく、また、変化しさえする。事実が変化したり、事実の把握を誤り失敗した際には、はばかることなく迅速に柔軟に意見・戦略を修正すべきなのだろう。

意見・戦略の修正においては 、「事実評価に先立って事実認定がある」ということを認識することが重要だといえる。我々の日常における選択は3つの過程を経る。(1)情報を集め事実を認定し、(2)認定した事実を評価し、そして(3)事実の評価に基づき戦略を立てる、というものだ(「論理」より前に「事実」が来るのである。これを取り違えるのは最悪の誤りである。用意した「論理」「枠組」からしか物事を考えられないのは、面接に来てコミュニケーションを図ろうとしない滑稽な学生のようである)。戦略を見直すには、まず事実の認定の部分から見直す必要があるだろう。これは、頭ではわかっていてもなかなか難しい。違う梯子を登るには、いったん今まで登ってきた梯子を降りる必要があり、これは明らかに面倒であるからだ。面倒さを感じなくなるほどに実践することが近道なのかもしれない。

★★★

ファイヤアーベントという人物がいた。

彼は、極度の相対主義者、普遍化の要求を拒む頑固な人物として評されることが多い。自明とされている様々なことをあえて疑ってみる、という姿勢が彼の根本にある。しかし、彼は本当に頑固なのだろうか。むしろその逆であるように思える。彼の言っていた「知のダイナミズム」とは、前提命題を疑い続けるという態度であるが、これは先ほど目指すべきだと述べた「常に事実の認定の部分から見直す態度」のような、極めて柔軟なものである。彼は柔軟であるということについて頑固であったのだ。この態度は、人生を上手くやるために見習うべき態度といえないか。

自明だと思っていたことを疑ってみること、これがファイヤアーベントの実践してきた態度の主要なものであった。「今考えていることの逆が正解だ」と述べたFF6のセッツァーさんのような心持ちが必要なのかもしれない。ちなみに林修先生のWikipediaの「影響を受けたもの」の欄に「村上陽一郎」という名前があった。彼はファイヤアーベントの著作の翻訳者でもある。

現在、比較的容易に入手できる書籍として『知についての三つの対話』というものがある。これはプラトン以来の対話方式を用いて綴られる内容となっている。事実として世界は「とりとめなし、結論なし」である以上、事実として人間の価値観は多様である以上、世界を、人間ををより的確に記述するためには、一人の主体に語らせるのではなく、とりとめないが全体として本質に近づいていく、という対話方式が適していると考えたのであろう。当ブログが多くの場合、結論ではなくメモとして手掛かりのみを羅列的に示しているのも同様の趣旨である(かもしれない)。

ファイヤアーベントに関する書籍は、彼の思考の質からすれば少なすぎるように思える。その著作のほとんどがファイヤアーベントの焼き直しである竹内薫氏あたりが解説書のようなものを書くことをささやかに期待したい。

★★★

先人から教訓を譲り受けるということは、感動的ですらある。

そして、ここでは先人の定義を拡張する必要がある。生きている人間も、そして年下であってもある領域において先をいっているような人も含む方が良さそうだ。

ジョジョ7部におけるジョニィに対するジャイロのように、「先人」との出会いは、人生を上手くやるという点において重要な役割を果たしうる。また、テレビに映った長友選手の本棚に、様々な自己啓発的な書籍が並んでいたことも思い出される。自分の中で信念や戦略を形成しつつ、それを修正していくのが人生なのだろう。

ときには先人の手を借りることが手っ取り早くてよいのかもしれない。手っ取り早さ、というのもまた、有限の人生の中で重要なことであろう。例えば、学生時代、家庭教師のバイトをしているとき、数学はすぐに解答を読ませることで成績を上げさせてきた。自分自身もそうだった。芸術においてもそうかもしれない。例えば、ピカソは「芸術とは盗むことだ」、ダリは「なにもマネしたくないと言ってる奴はなにもつくれない」と言ったらしい(これは個人的にはあまり同意できないが)。なんであれ、手っ取り早さ、というのは人生において重要そうだ。

2013年6月14日金曜日

善意と善行のこと

「何をすれば相手が喜ぶか分からないときには、(1)自分がされたくないことはせず、(2)自分がされて嬉しいと思うことをすればいい。わからないからって何もせず委縮すると善行はなされない」という趣旨の主張を見かけた。

これは実は怖い世界観なのではないだろうか。

例えば医療の分野では、行為規範として医療四原則というものがある。それは「無危害」「善行」「配分的正義」「自律尊重」の四つだ。これは様々な分野で成立する素敵な行為規範だと思われる。本稿では、「善行」に優先される「無危害」という重大な原則がある、また、「善意」による行為=「善行」ではない、ということを喚起する話ができればと思う。

★★★

まず、「行為者の意図は多くの場合重要ではない」ということを思い出すべきだ(「多くの場合」と留保をつけたのは、親密な間柄では例外的に意図そのものが意味を持ちうるからだ)これを否定すると「善意」=「善行」と考えることにつながってしまう。しかし、行為の目的が相手を喜ばせることにあるのであれば、重要なのは相手方の主観だろう。

「そんなつもりじゃなかった」「あなたのためを思ってやったことだから」といったような、行為者が自らの意図を語る姿を見たことは、誰にでもあるだろう。これらの言い回しのように、行為者の意図はそもそも基本的には言い訳として外部に出される。しかし、行為を行うに際して重要なのは、「行為者の主観」ではなく、「被行為者の主観」や「行為によって生じる結果」の方だろう。行為者の主観の解説は、「この行為は善意によるものなので善行として受け取ってください」という、善意で行為を正当化しようとする意味しかもたない。

「善意」から行われる行為を「善行」だと確信して他者に何かを働きかける行動すること、事後的にそれを解説すること、これらはあまり褒められたものではないだろう。

★★★

(1)「自分がされたくないことはしない」というのは素晴らしい行為規範だろう。他方で、(2)「相手が何をしてほしいか分からないときは自分がされて嬉しいことをする」というそれは、結構怖い。

確かに、親密な間柄であればこの(2)の行為規範を適用することは自然なことかもしれない。親密とはそもそもそういうことだろう。善意(意図)自体が嬉しいからである。

しかしながら、親密な間柄というものは当然、かなり例外的な状況だ。社会で生活するほぼすべての人は、親密ではない。広く知らない相手に対しても当該行為規範を適用しようとするならば、この行為規範は恐ろしいものであるといえ、その前提としている世界観は恐ろしいものである。

後者の行為規範を信じている人物は、(A)「価値観はびっくりするほど多様である」という事実を否定した(あるいは知らない)世界観の持ち主か、(B)(価値観は多様であり自己の主観から他者の受け取り方を類推することはできないことを認識しつつも)行為が生み出す結果や相手の主観は置いて、自己の意図によって行為を正当化しようとしている人物であろう。そして、そのような人物が(2)の行為規範を適用し身勝手に行動することにより、被行為者はただただリスクを負わされるのだ。

「善意による行為」=「善行」ではないことを認識すべきだ。また、被行為者が行為者に何かしらの干渉の契機を与えたのではない限り、「善行」(干渉)よりも「無危害」(不干渉)が優先されるべきだ(なぜなら被行為者が一方的にいリスクを負わされるからだ)。仮に「善行」が「無危害」に優先される理由はないと考えても、「善行」であるか否かが事前には不確かな場合には、「無危害」を優先すべきだとはいえるはずだ(なぜなら被行為者が一方的にリスクを負わされるからだ)。事実として価値観は均質ではない。そして、なによりも重要なのは、「私と相手は親密な間柄にある」という誤解をしないことだ(なぜなら被行為者が一方的に…)。職場が同じであったり、クラスが同じであったり、あるいは親子であると、ついつい親密な間柄だと思ってしまいがちだろう。しかしこれらは当事者が選びとった関係ではない。本当に相手と親密な間柄にあるかをもう一度考え直すことは重要であろう。

何か善行を行いたいのであれば、相手の選好を端的に尋ねればよいのだ。それによってリスクの発生は基本的には防止できる。その方が行為者自身にとっても被行為者にとっても幸せなはずだ。喜ばれるサプライズは、親密な間柄においてのみ成立する。

リスクを被るのは相手だ。「何もしない」という選択肢を、忘れるべきではないだろう。

★★★

「親密な」の定義は曖昧だ。かわいい女の子やイケメンだったら、交流がなくてもこの定義に含まれるだろう。意図自体で相手方の嬉しさを発生させるからだ。かわいいは正義とはそのような意味だと解される。

2013年6月8日土曜日

ルールのこと

「ルールさえ守ればなにやってもいいと思ってるのか!」という発言に対する違和感。

他者に押し付けていい価値観の束は、ルール・法だけだと考えておくべきではないだろうか。これ以外の価値観は、「個人的な価値観」であり、それを他者に押し付けることができると考えることは危険なのではないだろうか。

 「個人的な価値観の押しつけ」がなされるのが社会の在り方だとすると、委縮効果が発生してしまう。そして、わざわざ立ち入ってきた第三者たちにより、精神的に傷つけられてしまう。

そういった押しつけをしてしまう側は、自己の行為がただの攻撃であることに気がついていない。押し付けることが正義であるという謎の確信を持ってしまい、積極的に押し付けようとすらしてしまう。攻撃ではなく、社会的な利益のための防御だと思っている。または、攻撃だと認識しているとしても、先に攻撃してきたのは相手だ、と考えてしまうのであろう。社会的な秩序が傷つけられたのだから攻撃していいはずだ、と。しかし、ここでいう社会的利益とは何であろうか。また、それを巧妙に定義付けることが可能であるとしても、他者に介入する道具にすぎない「社会的利益」なるものを、具体的な個人の具体的な利益に優先して認めるべきなのだろうか。

伝統や慣習、通念。ルール・法になっていないがなお必要とされるものはたくさんある。しかしながら、これらは自己を律するものであれ、他者を拘束するためのものではないはずだ

 「ルールは破ってないけどダメ、悪だ!」とする価値観はどこから調達したものかといえば、それは当該発言をする人の個人的な価値観以外にありえない。同様の価値観を偶然に有した人がいるとしても、だからといって個人の価値観が、手続きを経て合意を経た他者に強制可能な価値観と同等の価値をもつわけではない。同様の価値観を有した者たちで集まり、互いの個人的な価値観をエンドースし合い、正義はこちらの側にあるという謎の確信を深める。そしてよってたかって糾弾する。それはやはり危険な状態だといえないか。

ルール・法は、民主的に調達した価値観がもとになっている。代表がつくる、合議でつくる、といった性質から個人の価値観とずれる部分も少なくないであろう。しかし、少なくとも納得がある。事前の合意がある。事前の参加がある。これは押しつけても問題ない価値観の束だ。きちんと用意されている。押しつけていい価値観の束は、きちんと社会に用意されているのだ。また、価値観の束が十分に大きければルール化される道も用意されているし、既存のルールを変更する道もある。

ルール・法の他に、他人に押し付けていい価値観を認めるべきなのだろうか。そもそも価値観が多様であることを前提とすれば、決まりごとはなるべく少ない方がよいはずだ。押しつける側は正当な防御だと勝手に考え堂々とあらゆる人に攻撃をしかけている。わざわざ立ち入って攻撃をしかける第三者はやはり危険なのではないか。

2013年6月3日月曜日

FIFAランクのこと

FIFAランクというと、「実際の強さとは関係がない」という評価が半ば反射的になされるのを目にする。勝ち点を基礎に試合の重要度や対戦相手の強さといった係数をかけて算出するものである以上、強さと無関係というのはさすがに暴論であろう。また、「こんな順位は意味がない」も同様であろう。FIFAランクを基準としてW杯本大会や予選の抽選のポッドが振り分けられる以上、順位自体は意味を持つ。もっとも、強さとの関係の程度等については批判の余地がある。これを検討するにあたっては、「手段は目的との関係で評価すべきだ」ということを念頭に入れておく必要がある。

こうして指摘されている部分に関しては、より納得のいく順位が現れることをFIFAも当然望んでおり、何度か改定を重ねて苦慮している。直近ではドイツW杯後の2006年7月12日に評価方法は改定されている。とりわけ直近4年のすべての国際Aマッチをポイントの対象にする変更は、対戦相手の強さごとの重み付けとあいまって、強豪国間での試合が多い上位国におけるランクをより正確なものとした。

この計算式にはFIFAも満足しているのか、改定後初の南アフリカでのW杯では、ポッド1決定の際に、グループリーグ抽選会前のFIFAランクの上から7カ国をそのまま採用しており、開催国+ランキング上位7位がそのままポッド1とされている(グループリーグでは、ポッド毎にA~Hの組に国を配置していく方式がとられている。つまり、同じポッドに入った他の強豪国とはグループリーグにおいて異なる組に入ることとなる)。もちろん地域の割り振り等を考慮した結果としてこれに落ち着いた可能性もあるが、いずれにせよFIFAランクはランク上位国に対しては重要な考慮要素として用いられている

以上の通り、FIFAランクは実際の強さと一定の関係があり、また、W杯予選や本大会の組み合わせのポッド分けにおいて実際的な意味を持つ。新しい計算式は、少なくともランク上位国は実際の強さを反映しているように思え、また、実際的な大きな意味を持つのも上位国に限られる(7位前後の国の国民であれば、制度への批判は切実な意味を持つだろう)。W杯の予選もまた、FIFAランクに基づき抽選の割り振りがなされるが、ランクが世界における立ち位置を示さないまでも、同じ予選地域における上下関係について実際の強さを反映していれば足りる。そうだとすると、問題のない計算式であるように思える。

他方で、FIFAのブラッター会長は、W杯のアジア枠を増やすべきだという趣旨の発言を今年の5月にしている。その根拠は、FIFAの収入はアジアが半分を占め、欧州の貢献度は2割以下だという点にあるとされている。ポッド分けにおいて同地域のチームが多くあたらないように工夫したり、考慮要素は表立って言及されるもの以外にも、実に様々あるだろう。その中で、試合結果を基に計算される考慮要素たるFIFAランクは、意外と好ましいものなのではないだろうか。

ちなみにFIFAランクの正式名称は「FIFA/Coca-Cola World Ranking 」である。過去4年の国際Aマッチを対象に計算する。計算式は以下の通りである。思われている以上に係数の値は実は多くの人の主観とマッチするのではないか。

◆マッチポイント
⇒(A)×(B)×(C)×(D)×100

・(A)
⇒勝ち点
⇒勝ち:3、引き分け:1、負け:0。PKのときは勝ち:2、負け:2。

・(B)
⇒試合の重要度
⇒親善試合等:1、大陸選手権予選、W杯予選:2.5、大陸選手権本大会、コンフェデ:3、W杯本大会:4

※「大陸選手権」とは、EURO、アフリカネイションズカップ、コパアメリカ、CONCACAFゴールドカップ、OFCネイションズカップ、アジアカップの6つの大会をいう。今月行われる東アジア選手権は「親善試合等」にあたり、係数は親善試合と同じ1である。

・(C)
⇒対戦国の強さ
⇒対戦時点でのFIFAランキングが適用される。1位:2、2位~149位:(200-対戦国のFIFAランク/100、150位以下:0.5

・(D)
⇒対戦国が所属する連盟の強さ
⇒UEFA: 1.0 CONMEBOL: 1.0 CONCACAF: 0.88 AFC: 0.86 CAF: 0.86 OFC: 0.85の定数をもとに、2国の定数の平均値を係数とする。

◆ランキングポイント
⇒4年を1年ずつ4つに区切り、直近の1年ごとに、上記で算出したマッチポイントの合計を計算し、試合数で割る(ただし、5試合以下のときは5で割る)
⇒そしてその4つの数値に、直近の1年のものには1、以下0.5、0.3、0.2をそれぞれ掛け、足し合わせる。

2013年6月1日土曜日

病気のこと

  「病気」とはなんだろうか。これを定義するのは実は難しい。おそらく「健康」「正常」を定義し、それのとズレを「病気」と名付けるのだろう。この「健康」の設定の仕方によっては、左利きも怠惰さもブサイクも、なにもかもが病気になるだろう。

   「病気」という語がなんらかの意味をもつためには、なんらかの限定が必要なはずだ。
  「健康」とはなんだろうか。
  「生まれながらにもっている性質」だとすると、「生まれながらの病気」の存在を否定することとなってしまう。では、「多くの人が生まれながらにもっている性質」だとどうだろうか。そうすると、どの程度の人が持っている性質が「正常な性質」であり「健康」なのだろうか。割合を基準とした定量的な定義付けは、線引きが難しく、また、少数派を締め出すことになりかねない。少数派に「病気」というレッテル、スティグマを貼り付けることになりうる。やはり適切な定義はできそうにない。

  考え方を変えてみよう。
  「設定した健康に近づける手段が存在するときに、それは病気となる」はどうだろうか。
  まず、設定の主体はどこにあるべきだろうか。
   権威的機関が一括に設定するか、個人の主観に委ねるという方法がありそうだ。前者には危険がある。多数派が少数派に対し、「病気」と名付けることができてしまう。もっとも、一括に設定された権威付られた定義がなければ、医療行為を定義付けることができず、社会は動かない。後者にも問題がある。「私は病気なので。病気のせいで」という言い回しが当然に他者に通用するわけではなくなってしまうからだ。とはいえ、主観的に自己が病気だと考え、また、正常へと近づける手段が存在する場合には、それを「病気」と名付けてしまってよい気がする。
  定義を考えるときは、両方の観点から見る必要がありそうだ。そして、どちらの観点によるかによって、「病気」という語の役割は変わってくるだろう。

  では、「設定した健康に近づける手段が存在する」という客観的定義の部分はどうか。
  これは、薬で物理的化学的に治したり、カウンセリングにより精神的働きかけで治したり、と「病気」のもつイメージに近い。これでは「不治の病」が「病気」の定義から外れてしまうのではないか、ということが少し気になる。とはいえ、この場合は、進行を遅らせる手立てがあれば、なお定義は維持できそうだ。また、全く手立てがないのであれば「病気」と名付ける意義は実は乏しいのかもしれない。

  しかしこの定義の問題は、左利きも低身長も「健康」に近づける手段が存在するということにある。これらは「病気」とするのが適切なのだろうか。利きになるよう治療すれば包丁やドアや改札といった多くの場面で社会生活が楽になる。そして、左手に包帯を巻き数ヶ月過ごす、といった矯正「治療」も可能であろう。主観的に治したいと感じている者に治療を施すことはよいであろう。他方で、権威的機関が一括に設定し、ある種のレッテル、スティグマを貼り付けてしまうのは問題がありそうだ。そうだとすると、医療行為として認定されず、主観的観点による定義は無意味なものに帰する。

  ちなみに筆者は左利きである。(この一文が一定の役割を果たしてしまう点に社会の問題がありそうだが、これはまた別の機会に。)

  「病気」の名付けの基準、歯止めはあるのだろうか。
  歯止めがないとすれば、「これは病気です」「私は病気なのです」という言葉はほとんど情報量を持たないことになってしまう。


  だらだらと述べてきたことの論旨は簡潔なただ一つ。定義付けることは困難だ、ということだ。難しい問題ではあるが、「病気」というものの定義が自明ではないことを意識することは有用であろう。もう少し踏み込むとすれば、「私は病気を抱えているので…」と「病気」を根拠に他者に何かを求める場合には、求める側が、いかなる観点でそれが「病気」であるかを相手に説明する必要があるのではないか、とは言えないだろうか。