2013年6月30日日曜日

クラブ経営のこと

スペインリーグ3部にアルバセテというチームがある。アルバセテは、選手の給料の未払金を一定の期限までに支払わなければ降格のペナルティを受ける危機にあった。そこに現れたのは、バルセロナのイニエスタであった。彼は自費でその未払金を支払い、降格を免れさせたそうだ。イニエスタは当該チームの下部組織に所属していた。2011年から主要株主でもあり、株主としての考慮も働いたであろうが、自分を育てたチームを降格から守るするイニエスタはさすがである。

リーガといえば、今年の1月10日に破産手続開始の発表をしたデポルティーボのことが思い起こされる。スペインの不況もあり、レアルとバルサといういわゆる2強チーム以外の集客力は明確に衰えている。そのような状況において、デポルティーボは破産手続を開始するに至った。リーガには破産によるペナルティはなかったようだが、結局作シーズンを19位で終え、デポルティーボは降格するに至った。上記のアルバセテに適用されるレギュレーションとの違いは気になるが把握することができなかった。

これ対し、例えばセリエAでは、フィオレンティーナが破産により強制降格している(この場合もやはり、強制降格がなされる前から、主力選手を放出せざるを得ず、成績は低迷していた)。各リーグにより破産・再生手続開始に伴うレギュレーションは異なる。チームの強さや格といったものは、やはりチームの財政と大きく関連することから、財政についてのレギュレーションのリーグ間比較は興味深い。

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財政についていえば、クラブの収入の内訳も各リーグにより大きく異なる。いずれのリーグにおいても、収入の大きな柱は放映権料、入場料、グッズ販売の3つである。

セリエAでは、テレビの放映権料がその収入の多くを占めている。6割が放映権料であり、観客収入は1割強にとどまる。また、グッズ販売も他リーグより少ない。これに対し、ブンデスは観客数が世界一であり、入場料やグッズ販売による収入が多い。プレミアは、そのいずれものバランスがとれており、世界で最も多く収入を得ているリーグとなっている。

ではリーガはどうであるか。

リーガといえば、放映権問題である。昨夜、アルバセテに関するニュースとともに、スペイン政府のスポーツ上級委員会の会長がリーガの緊縮財政政策を発表したとのニュースも報じられている。そこで同会長は、テレビ放映権に関する介入も強調している。

リーガは現在テレビ放映権につき、他のリーグが行っているような、一括でリーグが放映権料を集め各クラブに再配分するということを行っていない(よって現状では2強チームが放映権料を他のチームに比してかなり多く得ている。10-11シーズンのデータによると、バルセロナが25.3%、レアル・マドリーが24.1%。そしてリーガ3位のバレンシアにはたった6.5%の放映権があてられるのみである)。これについて会長は、14-15シーズンから一括管理を始めるという方針を示したという。

一括管理がもたらすものは、配分の公平性にとどまらず、放映権の売却もより見込めるようになるという効果も含まれる。現状ではそもそもの放映権料の総額はプレミアやセリエよりもかなり低い額となっている。一括管理を行えば、2強チームは減収となるが、リーグ全体にとっては増収となるだろう。

放映権の一括管理への動きを受け、レアルのペレス会長は、いち早く他の収益手段の確保に向け動いていると言われている。それは、ベルナベウを全面改修し、多目的施設として増収を図るという手だと言われている。CLのブンデス所属チーム同士の決勝も象徴的であったが(前年度も準決勝でレアル、バルサともに敗退しているが、1stレグでの4点差、3点差の試合は世界に衝撃を与えた)、財政面からもリーガは分かりやすく正念場を迎えている。

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日本についてみると、例えば野球ではリーグごとに収益構造が大きく異なる。

セ・リーグは、放映権収入が主なものである。他方で、パ・リーグは、スタジアムを管理する権利をチームが有しており、スタジアム収入が多くを占めるという。具体的には、看板広告の収入はスタジアム収入の典型であるが、それに加え、ボールパークと称し遊園地や娯楽施設としての機能をスタジアムに担わせ収益を上げている。これは先のペレス会長の方針を想起させる。放映権収入からスタジアム収入へと経営戦略の重点が移行しようとしているのは、セ・リーグ型からパ・リーグ型への移行と言えるかもしれない。

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また、政府や地方公共団体といった公共部門とスポーツとの関連も興味深い。例えば、日産スタジアムの指定管理者(公の施設の管理の権限が付与され、管理業務のみならず利用許可などの一定の行政処分も行うことができる)である横浜マリノスが抱える困難であるとか、町田ゼルビアに対し今年のはじめになされた住民監査請求(これ自体の妥当性は別として、市がクラブへ関与することから生じてしまう様々な問題の典型であろう)といったものについては、また機会があれば詳述したい。

入場料収入と地方公共団体について、セリエAのユベントスの例を残しておく。

ユヴェントスは、2011年9月にユヴェントス・スタジアムを設立しており、これにより入場料収入を3倍近く伸ばし、一気に欧州のトップ10に入っている。

何故これまで収入を増やせたかといえば、この新スタジアムが、クラブ自身が所有するスタジアムであるからだ。クラブによるスタジアム所有は、セリエで初となる。その他のクラブが使用するスタジアムは、自治体が所有するものであり、サッカー専用スタジアムではなく、陸上のトラックがあり観客席とピッチが遠いスタジアムがほとんどである。そして、入場料収入についても、スタジアムの所有者である地方公共団体に半分も流れていた(逆にいえば、ユヴェントススタジアムの設立により、市の収入が大幅に減っているともいえる。この流れが続けば、イタリアにおいてまた別の問題を残す余地もありそうだ)。

ユヴェントスは、かつてホームスタジアムとしていたデッレ・アルピ(スタジアム周辺土地を含む)を市との長年の協議の末、市から買い取ることに成功した。これにより、自前のサッカー専用スタジアムとして新スタジアムを設立し、入場料収入を増やすとともに、これまであった陸上トラックが除去された非常にピッチと観客の近いスタジアムを手に入れることとなった。また、この年に無敗優勝を達成し、試合における成功も、収入の増加に寄与していることも忘れてはならない。財政面、結果面でも劇的な改善をした良い例であろう。




2013年6月26日水曜日

自殺のこと

自ら死を選ぶひとが少ない社会の方がいい(前提1)。おそらく異論のないこの前提から考え始めよう。

死が社会を動かす有用な武器となる社会。これは自ら死を選んでしまうことを助長するだろう。そうだとすると、自ら死を選ぶ人が少ない社会を目指すためには、死に大きな社会的意味を与えてはいけない。WHOの自殺報道ガイドラインにおける「自殺を美化したり、センセーショナルに報じない。」という規定も同様の趣旨であろう。また、あえて付記する必要はないかもしれないが、これは死者を悼む思いとは両立する別の話である。

ネットでのバッシングはどうするべきか。相手の打たれ強さは他人には分からない。そうだとすると、なるべく叩くことを避けるべきだろう。「過度に叩くことを」と言えないのは、相手の打たれ強さが分からないからだ。少なくとも言って後悔することは言わない方がいいだろう。逆に、後悔しないのであれば、仮に相手が死んでしまったからといって意見を変える必要はないだろう。意見を変えてしまうのなら、最初からそのようなことを言うべきではないし、何より死が武器となってしまう。いずれにせよ、第三者が見知らぬ他者に関わる際には、先立って熟慮が必要であろう。

もっとも、公人は、叩く必要が一定程度あり得るだろう(前提2)。ここには異論はないだろう。

しかし前提1をできるだけ害さない必要がある。叩くことはどの程度まで認められるだろうか。

相手の打たれ強さが分からないことから、客観的な程度を定めることができない。前提1を優先的に維持するとすれば、「死を選んでしまう可能性があるからまったく批判はすべきでない」となるだろう。しかしこれは誰も支持しない意見だろう。

むしろ、異論ない考え方は「死を選ばせる可能性はあるが批判はすべきだ」というものだろう。批判は常に死を選ばせてしまう可能性を孕んでいる。これは避けられない。我々の多くが、この「死を選ばせる可能性はあるが批判はすべきだ」という考え方を持っているのだということを、まず強く認識することは重要であろう。

では二つの異論ない前提を両立させることは本当にできないのだろうか。方法があるとすれば、批判される側が打たれ強くあるべきだ、というものしかないだろう。公人にはこのことがより強く求められるだろう。打たれ強くある決意ができないのではあれば、それとセットである公人になるという決意をすべきではないだろう。もっとも、すべての人にとって、批判される側の事情は他人事ではない。以前にも述べたが、単純に、なるべく仲間をつくり、なるべく強く生きなけけらばならないのだろう。

自殺とは、親がいれば、その人の子を殺す行為であり、友人がいれば、その人の友人を殺す行為である。また、まったく関係のない人の気分を害する行為でもある。こういった自殺の性質が武器としての機能を果たすことは、阻止すべきであろう。繰り返しになるが、これは死者を悼む思いとは両立する別の話である。そして、論理必然ではないが、仮に誰かが自殺したとすれば、筆者は死者を悼む思いからこの記事を記すだろう。
(事実は分からない。以前述べた通り、我々は常に「仮にこういう事実があったらこうだよね」という意見しか言い得ない。多くの場合わざわざ付言しないが、意見を言うときは常に「仮にこういう事実があったら」が省略されている。)

2013年6月25日火曜日

Jリーグの集客のこと

国内組はなぜ代表に呼ばれないのか、という問題提起が大きく持ち上がっている。コンフェデ後にまたゼロから代表選手の選考をする、という話がある。そして、間近に迫る東アジア選手権。上記の問題提起が持ち上がるには十分な背景がある。
他方で、サッカーがいかにメンタルのスポーツであるか、ということもコンフェデで改めて浮き彫りになったといえるが、国内組と海外組の形式的な違いは、ここに関連しそうである。代表の主力である本田選手や内田選手は、「勝ち癖」という言葉を以前からよく用いており、今回も敗戦の理由としてこの言葉を提出している。「勝ち癖」というのは、当然、「世界レベルの試合における勝ち癖」を意味するであろう。イタリア戦で前半終了間際、ピルロがCKに急いで日本の準備が整わないうちにリスタートをし、デロッシのゴールが決まったあのシーン。給水をしていた遠藤選手と前田選手が象徴的に画面に映し出されていた。いずれも日本を代表する高い能力を持った二人だ。

Jリーグのレベルはどのようにしたら上がるのだろうか。素朴に考えてみようと思う。

まず、能力が高い選手を連れてきたり雇ったりするためには、お金が必要だ。Jリーグのチームの主な収入源は、スポンサー収入(広告料など)とサポーター収入(入場料、グッズ販売による収益など)だ。集客力を高めることが決定的に重要だということは感覚的に分かる。もしかしたら、身体能力の高い子どもが、他のスポーツではなくサッカーで一流になることを目指すようになる、ということも必要かもしれない。いずれにせよ、Jリーグへの関心、サッカーへの関心を高めることが必要そうだ。

ここで、「人々の価値観を変えよう」というアプローチがあり得るが、個人的には賛成できない。都民の多くが望んでいないことがデータとして明白に表れていたのに、「東京でオリンピックを開催することは善きことだ」という個人的な信念の下で、他人の価値観を変更しようとするのは、あまり褒められたことに見えなかったからだ。また、何事も、北風作戦よりは太陽作戦の方が上手くいくように思える。いずれにせよ、既存の価値観をもったまま、人々がJリーグに関心を持つようになる方法がないのかを考えていきたい。

スポーツの楽しみ方は、大きく分けて二つある。

まず、レベルの高さを楽しむという観点がある。しかし、明白により優れたリーグが海外にある以上、この観点からはJリーグへの関心がそれほど高まらないであろう。

次に、ストーリーを楽しむ、という観点がある。使えるとすればこの観点だろう。熱心なサッカーファンも、映画のように試合を楽しむことがあるだろう。それは試合の内側においてもそうであるし、背景的なものを含んだ物語である場合もあるだろう。ここ1ヶ月くらいのことで言えば、CLに優勝した後のドイツカップ決勝という現体制最後の試合でマリオゴメスが先発起用されたことや(しかも2点もとった!)、あるいはヴォルフスブルクに移籍したペリシッチがドルトムント相手に活躍した(2点もとった!)ことは、ストーリーとしてもぐっとくるものがあった。
駅伝や高校サッカーが比較的広い層に楽しまれている理由はこの点にあるだろう。レベルの高さという点では他の大会に劣るこれらが、広い層に受け入れられているのは、汗と涙のストーリーがあるからだ。前日から周到に各校の歴史的背景、因縁を伝える番組が組まれ、また、試合後のロッカールームの映像が流される。これらを知るからこそ、ぐっとくる。

Jリーグにおいても、これができないだろうか。

こういった発想は当然に生まれるものであり、例えば実際にいくつかの地方で、地元チームの応援番組が放送されている。しかし、多くの場合これらは深夜帯または早朝(セレッソなど)に放送されるものであり、今年の3月には、「グランパスTVプラス」という19年間続いたグランパスの応援番組が終了したことが話題となったように、こういった番組は熱心なファンをつなぎとめることには役立っても、新規のファンを獲得する役割を担うのは困難だといえそうだ。

では、どのような方法が考えられるか。次の機会に書ければと思う。

2013年6月22日土曜日

岡崎慎司のこと

ッカー少年がそのままの情熱で大人になったと思わせる風貌。小学校の頃、このような風貌の同級生が誰にでもいたはずだ。やはり、このような人物こそ世界で認められて欲しい。そして、ここにコンフェデという素晴らしい舞台がある。これに出られなかったことでほんの少しオシムさんに恨みを思ってしまうほど大事な大会である。

ブラジル戦では、1トップ起用。今年1月のヴォルフスブルク戦において、イビセビッチが出場停止の際、1トップ起用された岡崎はなにもできなかった(試合はジエゴにやられた。ユーべでは輝けず、マガトには外され、ブラジル代表としてはカカがいるため出場できず、という選手。ではあるが、非常に優れた選手だ。ブラジルはすごい)。その試合以来に見る岡崎のワントップ。やはり多くのことはできなかった。ファールをとるべく消極的に倒れこむシーンが多かった。 しかも、そのうちの多くは攻撃の正体がつかめない倒れ方であった。前田が入り右SHに移ってからは、守備面ではマルセロにうまく対応できていたように見えた。とはいえチーム全体のメンタルにおいて、もはやどうにもならなかったようだ。

しかし、イタリア戦。 ザキオカPK奪取。ザキオカターン。ザキオカルーレット。ザキオカピルロからのボール奪取。ザキオカダッシュ。ザキオカヘッド。…といった素晴らしい岡崎選手が見られた。長めのパス以外はほとんど成功していたように思えた。

昨シーズン終盤、シャルケ戦で自陣ゴールに長距離ドリブルをして、アシストを決めた男と、同一人物である。ドイツの方々も非常に驚いたことであろう。スペイン紙では「日本にはオリベルアトム(キャプテン翼)がいた」と評されたとか。彼は間違いなく世界をいくらか驚かせた。本当に嬉しい。今夜のメキシコ戦。非常にわくわくしている。 良い就活になってほしい。

サッカー好きにとって、サッカー選手は憧れの対象そのものである。 もはや代表ではレジェンド級の結果を残している岡崎選手は本当にかっこいい。代表戦のスタジアムで、自分のユニを着ているサポが少ないことを気にする岡崎選手。毛髪の量を気にして長髪にしていたと告白する岡崎選手。サッカー少年がそのままの情熱で大人になったと思わせる岡崎選手。ありのままの岡崎選手でがんばってください。

2013年6月15日土曜日

意見・戦略形成のこと

「過ちては改むるにはばかること勿れ」とは論語にある教えだという。まったく知らなかった。これは林修氏の著書『いつやるか? 今でしょ!』の冒頭に記載された言葉でもある。ある機会で偶々いただいたこの本の前書きに完全に引き込まれた。中高、大学の先輩でもある林修氏。いつかお会いしてみたいものである。

人生において常々、「頭の良い人物」、つまり「物事を上手くやる人物」、より実践的な呼び方をするのであれば「モテる人物」とは、前提となる事実が変化したときにすぐに意見・戦略を変更できる人物だと感じてきた。まさにこの論語にある言葉、林修氏が引いた言葉の通りだ。「大体の人の悩みは昔の人が解決している」という林修氏がテレビで述べていたことが端的に示された形でもある。すべての意見・戦略は、「仮に××という前提があれば、こうだ」というものにすぎない。そして、事実に関する情報は常に十全ではなく、また、変化しさえする。事実が変化したり、事実の把握を誤り失敗した際には、はばかることなく迅速に柔軟に意見・戦略を修正すべきなのだろう。

意見・戦略の修正においては 、「事実評価に先立って事実認定がある」ということを認識することが重要だといえる。我々の日常における選択は3つの過程を経る。(1)情報を集め事実を認定し、(2)認定した事実を評価し、そして(3)事実の評価に基づき戦略を立てる、というものだ(「論理」より前に「事実」が来るのである。これを取り違えるのは最悪の誤りである。用意した「論理」「枠組」からしか物事を考えられないのは、面接に来てコミュニケーションを図ろうとしない滑稽な学生のようである)。戦略を見直すには、まず事実の認定の部分から見直す必要があるだろう。これは、頭ではわかっていてもなかなか難しい。違う梯子を登るには、いったん今まで登ってきた梯子を降りる必要があり、これは明らかに面倒であるからだ。面倒さを感じなくなるほどに実践することが近道なのかもしれない。

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ファイヤアーベントという人物がいた。

彼は、極度の相対主義者、普遍化の要求を拒む頑固な人物として評されることが多い。自明とされている様々なことをあえて疑ってみる、という姿勢が彼の根本にある。しかし、彼は本当に頑固なのだろうか。むしろその逆であるように思える。彼の言っていた「知のダイナミズム」とは、前提命題を疑い続けるという態度であるが、これは先ほど目指すべきだと述べた「常に事実の認定の部分から見直す態度」のような、極めて柔軟なものである。彼は柔軟であるということについて頑固であったのだ。この態度は、人生を上手くやるために見習うべき態度といえないか。

自明だと思っていたことを疑ってみること、これがファイヤアーベントの実践してきた態度の主要なものであった。「今考えていることの逆が正解だ」と述べたFF6のセッツァーさんのような心持ちが必要なのかもしれない。ちなみに林修先生のWikipediaの「影響を受けたもの」の欄に「村上陽一郎」という名前があった。彼はファイヤアーベントの著作の翻訳者でもある。

現在、比較的容易に入手できる書籍として『知についての三つの対話』というものがある。これはプラトン以来の対話方式を用いて綴られる内容となっている。事実として世界は「とりとめなし、結論なし」である以上、事実として人間の価値観は多様である以上、世界を、人間ををより的確に記述するためには、一人の主体に語らせるのではなく、とりとめないが全体として本質に近づいていく、という対話方式が適していると考えたのであろう。当ブログが多くの場合、結論ではなくメモとして手掛かりのみを羅列的に示しているのも同様の趣旨である(かもしれない)。

ファイヤアーベントに関する書籍は、彼の思考の質からすれば少なすぎるように思える。その著作のほとんどがファイヤアーベントの焼き直しである竹内薫氏あたりが解説書のようなものを書くことをささやかに期待したい。

★★★

先人から教訓を譲り受けるということは、感動的ですらある。

そして、ここでは先人の定義を拡張する必要がある。生きている人間も、そして年下であってもある領域において先をいっているような人も含む方が良さそうだ。

ジョジョ7部におけるジョニィに対するジャイロのように、「先人」との出会いは、人生を上手くやるという点において重要な役割を果たしうる。また、テレビに映った長友選手の本棚に、様々な自己啓発的な書籍が並んでいたことも思い出される。自分の中で信念や戦略を形成しつつ、それを修正していくのが人生なのだろう。

ときには先人の手を借りることが手っ取り早くてよいのかもしれない。手っ取り早さ、というのもまた、有限の人生の中で重要なことであろう。例えば、学生時代、家庭教師のバイトをしているとき、数学はすぐに解答を読ませることで成績を上げさせてきた。自分自身もそうだった。芸術においてもそうかもしれない。例えば、ピカソは「芸術とは盗むことだ」、ダリは「なにもマネしたくないと言ってる奴はなにもつくれない」と言ったらしい(これは個人的にはあまり同意できないが)。なんであれ、手っ取り早さ、というのは人生において重要そうだ。